この半年、運動療法学概論というのを教えてきて、いろんな形で自分で読む書く聞く、体感する、ヒトを見る、触る、表現する、ということを学生にやってみてもらって、『教わる』じゃない『学ぶ』てなんだろうってことに向き合ってきた。 運動学、解剖学、生理学を、少しずつヒトの身体と運動に結びつけていくのがいわゆる『概論』の授業なわけだけど、そういう学習は高校生までではほとんど体験しない。 けれどもヒトの運動は、違う科目どうしの理解が重なって繋がっていくことでしか理解できない。 70人いる昼のクラスの、上10人くらいはすでにそのことに気づいて勉強が楽しくなってきている印象がある。だから会話をしていても、返答が的を射ている。質問も生まれてくる。 その下の40人くらいは、とりあえず出された課題をクリアすることができるタイプ。ここの人たちには、考える課題を課すこと自体が訓練になっていくので、彼らの理解度に応じた論文を用意した課題での読み取りや感想は悪くなかった。 どうも勉強やっても身につかないその下の20人は、膨大な暗記量を要求される課題に翻弄されるだけで毎日が過ぎていく。だから授業はできるだけ参加型にしてみるわけだけど、そこで、上の50人が主導することになってしまえばまたそれに翻弄されて時間が過ぎてしまう。 どうやったら、自分の脳の中のネットワークをつなげなければならない学問なんだということを伝えられるか考えた末、期末試験の再試験受験者が三人だったこともあってひとり30分の口頭試問にしてみた。 ひとりは、ただただ時間が足りなくて、勉強してはいるけれど繋げる時間が取れなかったようだ。要領の問題なのか、容量の問題なのかは試験ではわからなかったが、再試験になったことで十分な時間を費やせたようで、徐々に繋がり始めている回答を得られた。 ひとりは、とにかく蓄積できていなかった。知らない専門用語が多過ぎて、こちらの質問の意図も汲み取れない。名称をおぼえる解剖学はまだマシだけれど、機能をおぼえる生理学の理解が低過ぎて、まるで入学したての高校生と会話しているようだった。 ひとりは、暗記はしてきたが、何も繋がっていなかった。言葉を聞けば返答があるが、その意味はわからない。事象の繋がりについて目が向けられない。プリントを暗記することで完結するものだという勘違いに、口頭試問を通して気づいたようだった。 たとえば、筋肉はどうやって収縮しますか?という質問に対して。 他の二人は自分の記憶の中の『しゅうしゅく』にまつわる単語を引っ張り出すのが精一杯だったので、質問をどんどん細分化して確認していく作業になっていった。 (三名は特定できないように順とか内容とか少し変えてあります) じゃあ学生が勉強してないのがいけないのかというと、よく後者の学生が言う、『そういう教わりかたはしていない』というのもあながち間違いじゃなくて、なぜなら科目は科目として細分化されているから、そのあいだの行間はメインとしてはなかなか取り扱えないのが現実。そしてその行間には、ある程度知識を詰め込んでからではないと辿り着けないから尚更、ハードルはたくさんあるし、ひとつひとつのハードルもかなり高いものになってくる。 長くなってきた。 だからきっと、教える側には、三年後までの知識体系のマップをことあるごとに学生に提示していく義務があるし、今やっていること一つ一つを、何と繋げるべきかを伝える努力を怠ってはいけないのだと思う。 いまどきの学生は、て言うけれど、そんな学生を作ってきたのは、なんでもAイコールBで教えてきた受験のためのお勉強だし、正しい答が白黒はっきりつくことを好む社会と親の風潮だし、学ぶことを自分自身は運良くどこかで見つけてきた自分のような教員なのだろうから、一朝一夕の問題でも、もちろん学生個人のせいでもない。 知らないことを知る、どうやって知る、どうやってそれを身につける、それを使って何かをする、そういう過程は『自分なりに』見つけるしかないから、その途中で強制的に方向修正されるような教えかたは百害あって一利なしだなと、身につまされる経験でした。 ほんとは全員に口頭試問やりたい。
by ai_indigo
| 2017-02-20 09:44
| 教員として
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