カテゴリ:教員として( 8 )

魚ではなく釣りの仕方を。

今日から授業スタート。
解剖学で細胞周期をやったらしく、いきなり質問に来てくれた学生さんがいたので、とりあえず教科書調べてからおいで♡と切り返してみた。

まず自分で調べる!
先生はそのあいだに、教科書に載ってるかどうか自分でも確認して(今回の質問は無かった)渡せる答を用意しておく!

…問題は、二度目の質問に来るかどうかだ。

問題解決の方法を知ることが一番の勉強なんだよな、と思いながら夜は更けていくのであります。
by ai_indigo | 2017-04-07 18:11 | 教員として

教えること、のつぶやき(再試験によせて)

この半年、運動療法学概論というのを教えてきて、いろんな形で自分で読む書く聞く、体感する、ヒトを見る、触る、表現する、ということを学生にやってみてもらって、『教わる』じゃない『学ぶ』てなんだろうってことに向き合ってきた。

運動学、解剖学、生理学を、少しずつヒトの身体と運動に結びつけていくのがいわゆる『概論』の授業なわけだけど、そういう学習は高校生までではほとんど体験しない。
例えば、世界史と物理と英語を学んで、英語で物理学発祥の歴史を紐解いて当時の世界や人物を理解する、なんてことはほとんどやらない。

けれどもヒトの運動は、違う科目どうしの理解が重なって繋がっていくことでしか理解できない。

70人いる昼のクラスの、上10人くらいはすでにそのことに気づいて勉強が楽しくなってきている印象がある。だから会話をしていても、返答が的を射ている。質問も生まれてくる。

その下の40人くらいは、とりあえず出された課題をクリアすることができるタイプ。ここの人たちには、考える課題を課すこと自体が訓練になっていくので、彼らの理解度に応じた論文を用意した課題での読み取りや感想は悪くなかった。

どうも勉強やっても身につかないその下の20人は、膨大な暗記量を要求される課題に翻弄されるだけで毎日が過ぎていく。だから授業はできるだけ参加型にしてみるわけだけど、そこで、上の50人が主導することになってしまえばまたそれに翻弄されて時間が過ぎてしまう。

どうやったら、自分の脳の中のネットワークをつなげなければならない学問なんだということを伝えられるか考えた末、期末試験の再試験受験者が三人だったこともあってひとり30分の口頭試問にしてみた。
その結果、それぞれ何がわかってて何がわかっていないのか、すごくよくわかった。

ひとりは、ただただ時間が足りなくて、勉強してはいるけれど繋げる時間が取れなかったようだ。要領の問題なのか、容量の問題なのかは試験ではわからなかったが、再試験になったことで十分な時間を費やせたようで、徐々に繋がり始めている回答を得られた。

ひとりは、とにかく蓄積できていなかった。知らない専門用語が多過ぎて、こちらの質問の意図も汲み取れない。名称をおぼえる解剖学はまだマシだけれど、機能をおぼえる生理学の理解が低過ぎて、まるで入学したての高校生と会話しているようだった。

ひとりは、暗記はしてきたが、何も繋がっていなかった。言葉を聞けば返答があるが、その意味はわからない。事象の繋がりについて目が向けられない。プリントを暗記することで完結するものだという勘違いに、口頭試問を通して気づいたようだった。

たとえば、筋肉はどうやって収縮しますか?という質問に対して。
ひとり目は、一言目に『え、それは運動野からの話ですか?』と言った。
もうそれだけで、かなりわかってるんだなあという印象だし、実際運動野から説明してカルシウムイオンの放出とアクチンミオシンまでの長い説明もなかなかよかった。
もちろん運動療法学概論の範囲の質問もしたけど、そもそもそこがわかってないと筋力増強のやり方だけ知ってても意味がないので(理学療法士はその経路のどこかに病的に問題が起きたヒトを扱うので)、あえてざっくり質問してみたのだけど、わかってる子はこうなるのか!とこちらの目の鱗も落ちた。

他の二人は自分の記憶の中の『しゅうしゅく』にまつわる単語を引っ張り出すのが精一杯だったので、質問をどんどん細分化して確認していく作業になっていった。

(三名は特定できないように順とか内容とか少し変えてあります)

じゃあ学生が勉強してないのがいけないのかというと、よく後者の学生が言う、『そういう教わりかたはしていない』というのもあながち間違いじゃなくて、なぜなら科目は科目として細分化されているから、そのあいだの行間はメインとしてはなかなか取り扱えないのが現実。そしてその行間には、ある程度知識を詰め込んでからではないと辿り着けないから尚更、ハードルはたくさんあるし、ひとつひとつのハードルもかなり高いものになってくる。

長くなってきた。
小結論。

だからきっと、教える側には、三年後までの知識体系のマップをことあるごとに学生に提示していく義務があるし、今やっていること一つ一つを、何と繋げるべきかを伝える努力を怠ってはいけないのだと思う。

いまどきの学生は、て言うけれど、そんな学生を作ってきたのは、なんでもAイコールBで教えてきた受験のためのお勉強だし、正しい答が白黒はっきりつくことを好む社会と親の風潮だし、学ぶことを自分自身は運良くどこかで見つけてきた自分のような教員なのだろうから、一朝一夕の問題でも、もちろん学生個人のせいでもない。

知らないことを知る、どうやって知る、どうやってそれを身につける、それを使って何かをする、そういう過程は『自分なりに』見つけるしかないから、その途中で強制的に方向修正されるような教えかたは百害あって一利なしだなと、身につまされる経験でした。

ほんとは全員に口頭試問やりたい。
でも30分でもなんとかギリギリ学生の意図が汲める部分もあって、あーあー時間がこちらにもないわー、と思いました。ははは。。


by ai_indigo | 2017-02-20 09:44 | 教員として

学生さんたちと交換するもの

先日、昨年度担任をもたせていただいたクラスの学生さんから声をかけていただいて、夜間部の学生が縦に交流する会に参加してきました。昨年度は春からずっと悪阻があって、後期の途中で産休に入らなければならず、本当に迷惑ばかりかけたクラスなのだけれど、妊娠中から出産後までプレゼントをもらったりメールをくれたり、今回も声をかけてもらって、本当に教員ってこういう幸せを享受できる仕事なんだなと実感しました。
その二日後にはその前の年に副担任をさせてもらったクラスの学生さん3人が子どもに会いにわざわざ遊びに来てくださって、お祝いをもらい、おいしいランチのテーブルを囲み、近況や残りの学生生活の話でひとしきり盛り上がって、とてもいい時間を過ごしました。楽しかった。

もちろん人間同士なのでうまくいかないこともあって、関係性に溝ができてしまったり、嫌われたり、そのたびに凹んで夜眠れないようなこともいくつか起きるのが常なのだけれど、わたしは一教員として学生さんたちが目指すPTへの道を応援したいと思うし、その過程で起きる困難を誰かのせいにしたいと思う時には別にわたしのせいにしてもらっても構わないなと思っています。そういうことが必要な時もある。そして自分に非がある時は、きちんとあやまって関係性を築き直せる教員でいたいです。

できるだけ公平に、公正に、作らない自分で、教員をやっていきたい。
それがいいことなのか、仕事にとってプラスなのかマイナスなのかはよくわからないけれど、わたしは人を扱う仕事を教える立場になったのだから、自分が正直にやっていくことが一番大切なのではないかと思います。

誰か一人でも、困った時に、あ、あの教員に聞いてみようと思い出してもらえるような。そういう教員であり続ける努力をしたら、学生さんたちからいただいている幸せと、交換できるものがあるって言えるようになるかもしれない。少しずつ自分を伸ばしていかないといけない。
by ai_indigo | 2015-05-12 10:56 | 教員として

心が狭いのかしら

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自分なりの仕事のスタイルがあって、それはとても単純なのだけど(いやそれはスタイルと呼べるほどのものではないと言われたら何も反論できないのだけれど)、とにかく、今よりも来年いい仕事ができるように周りの上司•同僚のいいところをできるだけ見習って、自分で似たように実践するにはどういう色付けかたが相応しいか考えるように、いつも気をつけている。
モノマネではうまくいかないし、わたしなりに噛み砕いて、飲み込んで、消化して、自分の色にしていかないといけないと思う。だから、いいなと思ったら、その人にアドバイスをもらったりしながら一歩駒を進めてみる。
そういう一歩を探すことが仕事だと思うし、わたしの思う大切なスタイルだ。

それから、自分で勝手に感情的になって失敗の原因になることも多々あって、そのときはしばらく落ち込んだりする。そういうときはしっかり落ち込む。同時に、どうして自分が発した何かで自分自身が落ち込む結果になったのか、きちんと振り返る努力をしてみる。
起こしてしまった失敗はどうしようもないので、次の失敗をいかに軽いものにできるか、を考える。
同じことを同じ程度に二度やってしまわないように、できるだけ反芻したそのプロセスを身に染み込ませる。
それでもやるんだけど、また。

職場に恵まれていて周囲が皆優しくてほぼ年上の先輩方で、とてもありがたい。職場での人間関係で悩んだことはこれまでの人生で頑張っても思い出せなくて、それはいつも単純にラッキーだということもできるのだけど、せっかく幸運なのだからその場所にいるあいだにできるだけ進歩したいと思う。
たとえばこれから5年後に、わたしの5年前を懐かしいと思い出して周りの人と一緒に大笑いできるくらいに。

まあ、いつも反省の嵐で疲れちゃったりもしますが…。大切なのは理想の自分を目指して気持ちを揺らしていくことだと思う。


カフェで教育論の本を読みながら、そんなことを考えつつ、成長とか進歩とか、そういうこと考えたことあんのかな?てどうしても毎回思わされる誰かさんのことを思い出して、ひとり思い出しイライラをして、自分の心の狭さ(自分のやりかたが正しいと思いたいこの偏狭さ)に辟易として、それを和らげるために美味しいケーキで一息ついてしっとりしてみる、そんな夕べ。

仕事って、人によってその意味が違うのだろうけど、あまりにも違う意味で動いている人とやってるとなんだか悲しくなるし怖い顔になっちゃう。
そこを直すことを考えてみないといけないな。
by ai_indigo | 2014-09-18 18:54 | 教員として

中学校でやった高齢化社会についての授業の感想が返ってきた。

中学生が考える高齢化、180枚近い感想を読んで、まだまだ大人の考えに染まらないものが多数あって少し安心した。
そろそろ高齢者と呼ばれる(あるいはすでに呼ばれている)人たちが、自分たちが安心して老後を過ごすために大きな声で高齢化を叫んでみたところで、結局は、これから社会を作っていく彼ら(中学生などなど)が「楽しい老後」についてイメージを持っていなければ、なにも社会は変わらないのだ。

今回一番印象に残ったのは、出会った中学校の先生の思う老後が悲壮感に満ちていたこと。老後ってそんなに怖いものでしょうか。わたしはこれまでたくさんのお年寄りにお会いして、それぞれがそれぞれの人生を一生懸命楽しく(ときにはつらいことに直面しながら)生きているのをたくさん見てきたので、なんというか、結局は受容の問題なのではないかなと感じました。

以下、その先生に書いたお返事の一部の抜粋です。



高齢化社会が大問題のように叫ばれてはいますが、高齢者に多く関わる立場として一番強く思いますのは、結局のところすべての帰結は「ひとりひとりが年齢を重ねることを受容できるか」という一点にあるではないかということです。周囲の家族も含め、高齢者やそれを取り巻く社会が、人間はいつまでも健康でピンピンコロリと死ぬことができるなどという幻想を抱いている限り、問題は解決しません。ヒトも生き物ですので、だんだんと弱り、いつか病気にかかり、多かれ少なかれ苦しい思いをして死ぬのが自然の摂理なのです。そこから目を背けるということは、結果として老いを受け入れない社会を形成することに繋がるのだと思います。老いを受け入れたくない人たちが、老いを許容できる社会を作り出せるわけがないのです。
by ai_indigo | 2013-12-11 20:27 | 教員として

それぞれの要素から、全体を想像する。

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最近、評価実習前の学生さんたちを受け持ってグループ演習をしています。評価実習で求められることは、治療プログラム立案に向けて患者さんの全体像を把握できるかどうか、これに尽きるわけですが、これまで散々インプットに費やしてきた頭をアウトプットに切り替える、という意味では大きなパラダイム変換の時期でもあります。

例えば、わたしたちは大抵うどんとトマトと檸檬の個別の味を知っているし、それぞれ別々に食べることもできるわけですが、そうなると檸檬はなかなか食べられない。でも写真のように全て組み合わせたら、相乗効果でおいしい一品になったりする。
これって、ふと、それぞれの味の要素はなにかという根本的な視点に戻って組み合わせるという点が、患者さんの全体像把握に必要な想像力を働かせることと似てるなと感じました。

患者さんが、大腿骨の骨折をしているとき、リハビリは股関節や膝関節の機能回復に偏りがちです。でも、その患者さんの年齢によって、あるいは持っている他の疾患によって、家族構成や家屋構造、ライフスタイルによって、リハビリはオーダーメイドされなければなりません。
そんな要素をひとつずつ発見し組み合わせること。
それって、それぞれの要素にどんな特徴があるのか、最終的な治療後の生活にそれぞれどのように影響するのか、そういうことを把握した上で最大限の想像力を駆使する作業であるわけです。

うどんと言えばこう、と、決めてかかるセラピストにはならないでね。
by ai_indigo | 2013-12-01 22:38 | 教員として

日持ちしないから旅行のお土産には向きません。

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京都に行ったら粟餅。松本に行ったらマサムラのベビーシュークリーム。あ、賞味期限が短いからそこに行かなきゃ食べられない、ってことで。

開運堂のどら焼きもいいけど、マサムラのこれを手渡しするときの相手のテンションのアガり具合は、手土産持参人冥利に尽きるのでやっぱりこれ。(でも、アガってくれるのは松本周辺の人たちだけですけど。。)

というわけでこれから電車で下諏訪まで。実習先に向かいます。北アルプスはガスっていてよく見えませんが、八ヶ岳方向は遠くまで見渡せるので進行方向左に座りました。

理学療法士の実習は、なかなか厳しいです。ここ数年かなり指導体制が緩くなったとは言っても、患者さんを担当する重圧はなくならないので毎日が自分の能力の低さの再認識の繰り返しです。どんなPTになりたいと思うのか、何を目指して勉強してきたのか、細かく深く問われます。
大変な期間ではあるけれど、患者さんにとっては唯一の担当理学療法士という立場に近々立つわけですから、この実習がこれからの理学療法士人生の基盤になると言っても過言ではないと思います。

学生さんたちには、打たれ強く、しなやかな、笑顔を忘れないPTになってほしい。だからそんな学生でいてほしい。そのために私自身もそうありたい。
by ai_indigo | 2013-11-26 12:43 | 教員として

あずさはスーパーあずさよりも車両が新しいから揺れない。

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スーパーあずさは振り子が激しいんです。本なんて読んだ日には10分で頭クラクラしてしまう。
だからいつもあずさに乗ります。30分長いけどいいのそんなことは。

二回目の大学時代に月に一度くらいの頻度で往復した新宿⇄松本。その前の片道二時間十五分通学(八千代中央⇄武蔵境)の四年間もそうだけど、電車に乗ってた時間が長かったので、車窓プラス本という状況になると何とも言えないノスタルジーに襲われます。

あずさの切符を栞にして読書中。これも当時の習慣。

明日は諏訪にある施設に実習地訪問です。学生さんは元気かなあ。
by ai_indigo | 2013-11-25 19:06 | 教員として